・演 題:現代社会で「ふつうに食べる」難しさ
・日 時:2023年1月24日(火)19時~20時30分
・講 師:磯野真穂さん(人類学者)
・進 行:大村美香
・参加者:会場参加13名/オンライン参加54名
・文 責:大村美香
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現代は、病を防ぎ健康を保つための食情報にあふれている。しかし、そうした科学的情報の氾濫によって、私たちは食に結びつく多様な意味づけを失い、生き生きとした生から切り離されているのかもしれない。摂食障害を研究してきた人類学者の磯野真穂さんを招き、「現代社会でふつうに食べる難しさ」をテーマに語っていただいた。
「ふつうに食べる」ことについて、磯野さんは、何をどう食べたらいいかということをそれほど意識せず、食が暮らしを支える背景として存在しているような状態、と定義した。摂食障害の当事者の話を聞くうちに、栄養学的、医学的に正しい知識を与え、当事者の誤った知識を修正しようという科学啓蒙主義的なアプローチに違和感を抱き、食べ物とはどういう存在でどう見えているかに注目するようになったという。
普段、私たちは食べる際には、状況に応じて、さして悩むこともなく、食べ物を選び、どのような食べ方をするかを決めている。場面に合わせて何を食べ、どのように食器を使い、どのように飲み込むか、無数のルールがあるのだが、意識することなくそれに沿って食べる。これが可能なのは、小さい頃から繰り返し学んでいるから。こうした身体化された文化(ハビトゥス)のおかげで、私たちはふつうに食べられる。摂食障害に悩む人は、このハビトゥスが消えていることが多い。なお、このルールは、文化が異なると変化する。例えば、音をたてて麺類を食べるかどうかは、文化によって異なる。
私たちは意味を食べている。意味とは何か。説明のためにかなり単純化して言うと、意味には符号(サイン)と象徴(シンボル)の二つがある。符号は普遍化が志向され、一つの事象は一つの意味を指し示す。一方、象徴は複数で、多様性があり、任意。
昭和30年代の四国の農村では、彼岸に各戸で200から300個のまんじゅうを作り、親戚に10個ずつ配る風習があった。お互いに配り合うため、作った数のまんじゅうが各戸に残る。このまんじゅうは、人間関係を意味(象徴)しており、この行為で人間関係を確認し、作り出していた。食べ物を口にして過去の記憶を呼び覚ますシーンがドラマや漫画で描かれるように、食は過去と結びついてもいる。飲み会が日常と違う空間を意味し、結婚式は同じものを飲んでお祝いする意味があり、食は時空間に意味づけを与える。人は意味を食べて生きている。意味を食べるということは、意味を通じて世界と自分を関連づけるということ。
しかし現代社会では、食が医学化し、そのことによって、食の符号化が進む。2006年にメタボが流行語大賞になり、その後中高年男性がダイエット産業に取り込まれ、糖質制限が広がった。2015年あたりから、医師が一般向けに書いた「正しい食べ方」についての本が出回るようになる。
こうなってくると、食べ物は符号で捉えられる。例えば、ソフトクリームなら、何カロリーだ、脂肪が何g、糖質が何g、太りやすい、糖尿病になりやすい、といったように。先の四国の農村のまんじゅうなら、「そんなにまんじゅうを食べると糖質過多で体に悪い」となり、良い悪いの判別が始まり、食は学力テストのようになって、おいしさは消える。おまんじゅうの例でいえば、カロリーや栄養成分という符号でとらえられ、お彼岸の食べ物、人とつながる思い出、食べながら交わされた会話といった意味(象徴)が消える。しかし、おいしさは、まさにこうした意味から発生するもの。
符号化した食は人間性と紐づけられていく。『おやじダイエット部の奇跡」というベストセラーになった本がある。糖質制限をして痩せた男性の記録だが、糖質制限でスリムで健康な体を得た自分は、勇気と決断力があり、合理的・科学的思考ができ、人間としてすばらしい、という評価につながっていた。反対に、糖質制限をしない人は、最先端の論文が読めず、非科学的で合理的思考ができない人なのだとみなしていく。符号が人間性を表し始める。コロナ禍でも、暮らしの医学化と食の符号化が加速した。食は生命保持、会食は飛沫の飛散、という符号になった。
符号のフリをして実は符号ではないものも現れる。糖質制限について医師が書いた本の中には、「日本人にとって優れた食事」「死亡率が低い」という記述があった。しかし、関連論文を詳しく調べると、ここまで断言することはできないことが分かる。符号っぽいが 、そうは言い切れない。しかし、真実がどちらなのか、判別することは普通の人には無理で、何が本当かわかりづらい。
さらに符号のトレンドはどんどんと変わり、細分化する。カロリー制限から糖質制限、食べた方がいいたんぱく質、糖質、油などなど。変化のスパンは短く、そのたびに、「科学的」と主張される。科学の営みは細分化されていくのが本性とはいえ、一般人にとっては、自分の感覚が信じられなくなり、どれがいいのか分からなくなっていく。
科学は一つの知恵ではあるが、あまりにも科学的正しさを突きつめると、符号化が進み、意味を食べることが行いづらくなる。コロナ禍では、人が集まって食べる意味が消し去られてしまった。
暮らしの医学化に伴い、食の符号化はますます進むだろう。しかし、意味を食べることをやめると、人は一人になる。現代人が抱える最も大きな病の一つは、寂しさではないだろうか。どの世代も抱える最大の苦しさ。だからこそ、意味を食べることをやめてはいけない。