テーマ:“料理記者歴半世紀”
講師:岸 朝子さん
インタビュアー:村松真貴子さん
平成22年5月24日、18:30~20:00 東京ウィメンズプラザ第2会議室
参加者:28名
まとめ:西 妙子
「遅咲きの料理記者」スタートからの半世紀
2010年度最初の勉強会の講師は、JFJ創立メンバーの一人、料理記者歴55年の大先輩・岸 朝子さん。結婚して子育て真っ最中に雑誌記者となり、料理専門誌の編集長を経て食生活ジャーナリストとして、テレビ、雑誌、講演などで「おいしく食べて健康に」を啓蒙し続けている。その活動半世紀を、会員でフリーアナウンサーの村松真貴子さんの司会進行で伺った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
村松──1923年生まれの岸朝子さんは、琉球王国第2尚氏に連なる家系。ご主人は職業軍人、弟の宮城昌康さんは競馬評論家、姉は料理研究家の尚道子さん。その生い立ちそして結婚のエピソードから伺います。
岸──母親つるは沖縄県国頭郡大宜味小学校校長・親泊朝擢の娘で、琉球王国の後裔にあたります。父は大宜味村の出身、日米で牡蠣の養殖法の開発と普及に貢献し「世界の牡蠣王」と呼ばれています。母には3人の男きょうだいがいて、長男は軍人、次男は学者、3男は医者。その軍人の叔父の部下だった男性が、私の夫です。叔父は早くから彼を「朝子の婿」と決めていて、両親も乗り気。女子栄養学園(現・女子栄養大学)を卒業し、21歳の11月にお見合い、翌月には結婚しました。
村松──結婚後千葉県で牡蠣の養殖業を数年手がけ、その後東京へ移ってから『主婦の友社』に?
岸──牡蠣の養殖は千葉県の五井町という、元は潜水艦の避難場所だったところで7年ほど続けました。その間に私は長男を疫痢で亡くしています。栄養士の資格は持っていましたが、それが国家試験になるというので、東京で行われた1週間の講習会に出て受験し、合格した翌日のこと、長男は4歳でした。その後1953年に東京に移り、55年に主婦の友社の入社試験を受けました。募集要項に「料理の好きな家庭婦人、30歳まで」とあり、雑誌に載せる得意料理を作ればいいのだろうという軽い気持ちでした。実は32歳で妊娠7ヶ月、その時生まれた息子が今55歳ですから、まさに半世紀。
村松──まさか50年以上続くとはご本人も思わなかったわけですね。どんな試験でしたか?
岸──試験は月曜から土曜日まで、6日間にわたって行われました。午前中に講義があって午後はそれを原稿にまとめさせられたり、最後の日は会社近くの店に出向いて、材料を買って料理を作らされたり。「子だくさんの家の献立」という課題だったので、叔母の家(子ども6人)に行ってレポートもまとめました。現在はこういう実技試験がないから、今どきの編集者はだめなのね。
村松──その後母校に戻られて、1968年から『栄養と料理』の編集長としてご活躍。
岸──12年後に女子栄養大学出版部に転職するまでに、香川綾先生から3度お誘いを受けました。最初は「まだ右も左も分からないので」とお断りし、2度目は育児医学書の編集を途中で投げ出すわけにはいかなくて、3度目でお受けしました。夫も「三顧の礼をお受けしなさい」と言ってくれましたし。綾先生には「学校を潰さない限り、好きなことをしてよい」と激励されました。
村松──子育てと料理記者を両立されたご苦労は?
岸──埃で子どもは死にませんが、食べ物を間違ったら死にます。私は疫痢で長男を亡くしているし、食べることには手を抜かなかったですね。
村松──具体的にどういうことを?
岸──朝6時から朝食とお弁当を作り、夕飯のおかずも準備。子どもが目を覚ます頃には出勤のために化粧をしていました。ベビーシッターがいた時期もありますが、母が冬は沖縄に帰ってしまうので、連絡帳で夕食の段取りをまだ小学生だった長女に指示していました。
村松──そういうノートに助けられながら、『栄養と料理』を充実させていったわけですね。
岸──『栄養と料理』の編集長を10年続け、その後営業に回りました。綾先生から「何をしてもいい」と言われていましたから、編集長になってまず雑誌の判型を大きく(B6判をB5判)し、文字の級数も上げて読みやすくしました。さらに、雑誌は読んで楽しくなければならないと思って、自分が知りたいことをテーマに取り上げました。「食べ歩き」や「日本の食事」などのルポ物、「器の楽しみ」など。現地を取材するだけでなくコラムで作り方も入れたり、香川先生が考案されたレシピで使われる「大さじ○杯、小さじ○杯」など分量で誰でも作れるようにしました。それが部数増(10万部雑誌を20万部以上)に繋がったのだと思います。
村松──それから1979年に編集プロダクション『エディターズ』を設立して、雑誌・書籍を多数出版され、いよいよテレビ、「おいしゅうございます」の名台詞誕生ですね。
岸──「おいしゅうございました、ごちそうさま」は、当たり前の言葉なのにね。だからおいしくない時は黙っていました。1993年に始まったフジTVの『料理の鉄人』は、最初「70歳の記念にいっぺんだけ」のつもりだったから、主婦の友時代の同僚の平野雅章さんを審査員に紹介したのに、月1回がやがてレギュラーになり、6年続きました。
村松──あの番組は海外でも人気だそうで。
岸──アメリカで講演したこともありますが、『アイアンシェフ』として今も放送されていますし、シドニーなどでもスタートしています。
村松──たくさんの著作や、国の諮問委員などの要職にある料理記者歴半世紀の立場から見る「現在の日本の食生活」はいかがですか?
岸──このままでは日本は滅びますね、だって取材に来る人が鍋釜を持っていないんですよ。まともな食生活じゃないから顔中ニキビだらけだったり、料理をしないことをかっこいいと思ったり。香川綾先生が98歳で亡くなる直前に取材したときの、「人間も動物の仲間です、餌の捕り方・食べ方を教えるのが親の役目」とおっしゃった言葉が忘れられません。何を、どれだけ、どうやって食べるか。人間は火が使えるわけですから、老若男女、全員が自分の食事は自分で作れなければいけない。子どもを対象にキャンプでの自然学習を実施している作家のC・W・ニコルさんは、野外で飯盒でごはんを炊くときにマッチを使えない子を、「ひとり暮らしになったらお母さんを連れていくのか」としかるそうだけど、今の母親は黙っていても息子に付いて行きそう。大学の入学式に両親と祖父母が行く時代ですからね。でも、自分が食べることは自分で処理する、それが人間の資格だと思います。
村松──最後に、お酒もたばこもお好きな、岸さんの健康法は?
岸──たばこは1日2箱、でも、お酒は4合が2合に減りました。血圧の薬は飲んでいますが、その他は老人性白内障予防の検査を定期的に受ける以外、80歳を過ぎてもどこも悪くないんです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
──その後、約30分の質疑応答はフリートーク状態となり、
- 今までで忘れられない味は? 結婚間もないころ風邪で寝込んだときに母が作ってくれた「新えんどうとじゃがいもと鶏肉の煮物」。最近では『タテル・ヨシノ』で食べた「ホワイトアスパラのポタージュ」、これは心が震えるほどの味でした。
- JFJとして、どうすれば食生活が充実するか? 朝日新聞で出版された『おかず百選』が3刷と好調な売れ行きです。読者は50代、60代の男性が多いそうなので、忙しい妻に頼らずにすむよう、定年男性にエールを送ります。
- ライターとしての心構えは? 自分が伝えたいことをすればいい。珍しいことには何でも飛びつく好奇心が大事ね。
- そんな岸さんを、ご主人はどう思っていますか? 妹が夫に「お義兄さまは、珍獣を飼っているつもりらしいわ」と言ったことがあります(笑)。
──最後に岸さんの感想。
「今日集まってくださった方々を見て、村上さん、中村さん、砂田さんと私の4人で始めた会が、こんなに若返ってうれしゅうございます」