家事を考えて、見えてきたもの
【2023年度第1回勉強会】

・演 題:家事を考えて、見えてきたもの
・日 時:2023年5月31日(水)19時~20時30分
・講 師:阿古真理(作家・生活史研究家)
・進 行:大村美香
・参加者:会場参加8名、オンライン参加35名
・文 責:大村美香
**************

 2023年度第1回の勉強会は、第7回食生活ジャーナリスト大賞のジャーナリスト部門を受賞された、阿古真理さんに、受賞理由でもある著作「家事は大変って気づきましたか?」(亜紀書房刊)の執筆背景と、この著作を通じて訴えたかったこと、家事を考察することで見えてきた社会構造についてお話いただいた。

 最初に、著作が生まれた経緯について。「家事は大変って気づきましたか?」に先立つ著作「料理は女の義務ですか」は、当時、家事の省力化の議論が活発になってきたことから、それでもなお人が料理するのはなぜか考えてみようと思い、執筆した。共働きが珍しくなくなった一方で、企業の労働環境や保育園整備などは遅々として改善が進まず、それまで「正しい家事」とされていたものが間違っているのでは、もっと楽でいいはずといった声がSNSを中心に上がってきた。
中でも料理は毎日の食事を用意する作業だけにさぼることが難しく、一番高度な内容になる。どこまで作って、食卓を整えるのか。加工食品やミールキット、家事代行など選択肢は広がっている。その一方で「自分で料理した方がいいのでは」という思いもあり、そのはざまで葛藤が生まれる。それならば、「家事をやった方がいいのはなぜか」を人類史から考察し、なぜ女性に負担がかかっているのかを考えたかった。
 また、スープ作家の有賀薫さん、料理教室主宰の伊藤尚子さんと「新しいカテイカ研究会」というグループをSNSベースで立ち上げ、議論を交わし、イベントやワークショップを行い、noteで家事についての考察を発信していた。コロナ禍やお互いに多忙が重なったことでいつしか休眠状態になって活動は終了したが、その後webメディアなどで書きためたことと合わせ、本のベースとなっている。子育て世代を主なターゲットとし、前後の世代の人も見据えている。
 コロナが流行し始めた時に出た、大阪市長の「女は買い物に時間がかかる」という発言。失笑気味に「女の人は迷うからモノが決められない」という文脈で語られていた。買ってこいと言われたものを買ってくるだけだったら、子どもにでもできる。実際に行われている買い物という家事は、まったく違う質のもの。日々の台所を担う人は、家に何があるのかストックを把握し、昨日や昼の献立、家族の好き嫌い、天候などを考慮しながら今夜の献立のイメージを作りつつ、買い物にいった店頭でも、値段や売られているものを見ながら、献立を考えなくてはならないから時間がかかる。この内容を担い手以外はわかっていない。その落差。当事者以外に家事が見えていない。
 もしかすると、家事を担っている人も自覚ないかもしれない。家事にもやもやするという気持ちは、自分がやっていることはたいしたことではないという過小評価でもあり、それが延々と日々続くという深くて長い悩み。毎日作ってみないと分からないことがある。
 何が正しい家事か、基準がはっきりしない、という側面もある。例えば掃除の回数にしてもどの程度の頻度がよいか、汚れの認識、いずれも生活感覚で異なる。人によっても違うし、家族の間でも感覚が違えば齟齬が生まれる。シェアすることが一つの解決策のように言われるが、それにしても、どのように分担するか、作業の軽重など、線引きがあり、相手との関係性が反映される。家事には人間の営みの複雑さが反映されているのかもしれない。
 家事をする男性は増えているが「どの程度」かがポイント。女性が不在の日に代わって男性が料理し、家族に食べさせる。これは確かに家事シェアと言って間違いないだろうが、その前後の献立を考え、食材のやりくりの手配を誰が担当するのか、という営みの継続の視点からすると別の光景が浮かび上がる。
 「料理がしんどい」と感じる女性に取材をしたことがある。50代ぐらいの人が多かった。20年くらい家族に食事を作り続けている。その人の母親は専業主婦で、一汁二、三菜、手の込んだ料理を作っていたという場合が多い。そうすると、本人には「正しい主婦像」の思い込みがあり、そこに達することができず、疲れをため込んでいる。家の外で働く人に比べ、休みは少なく、家族と離れてみないと休めない。そして家族は食事への反応も示さない、つまり認められるご褒美もない。ブラックワークで疲れるのも当たり前。だが、本人も主婦はそうしたものという思い込みがある。
 この本の中で一番取り上げたかったのは、最終章で書いている「ケアと資本主義」について。ケアにはいろいろな場面があるが、自分で自分の面倒をみられない人の世話をすることが多く、自分を犠牲にして尽くしている。自分を中心にして生きられないと追い詰められる。長年、自分の欲求を抑えてケアに従事してきたために、自分自身を見失ってしまった人がシニア世代にたくさんいる。ケアは分担した方がいい。
 コロナ禍で安倍首相が休校を宣言した時、母親たちから悲鳴があがった。保育園や学校という子どもをケアする場を失った悪影響は圧倒的だった。この実態が政治家には見えていなかった。ケアの大変さと見返りの少なさは、介護者や保育士の給与の安さともつながっている。資本主義は、生産性を重んじ、家事を、ケアを見えないところへ追いやって成立している。資本主義の想定する人は、働き盛りの心身共に健康な男と時々女を指す。街の考えかたも、バリアフリーで少しずつ見直されているものの、スムーズで効率のよい街が目指されている。自民党は日本型福祉社会でケアを家庭が担うとし、女性に背負わせた。一方で安倍政権では女性活躍をうたったことは、ケアが見えていない状況を如実に表している。ケアをやっている人は社会的地位があがらない構造。
 家事は家庭の中で行われてきた無償労働。人として生きていくために、社会が心地よく回っていくために、考えねばならないことがもっとある。たとえケアが行き届いたとしても、問題は起きるだろうが、しかし、ケアを分かち合えれば、その問題は緩和できる。ケアの分かち合いは、社会のレジリエンス(困難をしなやかに乗り越える力)に直結している。

 この後、参加者との質疑応答となり、「一汁一菜の流行についてどう思うか」「お金にならない労働の価値をどう評価すればよいか」といった質問が寄せられ、いったん会が終了した後も意見交換があるなど、活発な議論が展開された。

タイトルとURLをコピーしました